2012年5月5日土曜日

妄言草/浮抜文庫:マイルズ・フレッチャー『知識人とファシズム』(柏書房、2011年)を読む


 1930年代から戦中に至る日本では、政党勢力に替わって軍部が政治の主導権を握り、国内においては統制、対外的には侵略という行動が繰り返された、というのが大まかな歴史的理解となっている。ただ、軍部の台頭によって、国内の知識人やジャーナリズムも、多少の抵抗を行うか、あるいは沈黙を余儀なくされてしまったという見解については、修正が迫られている。実際のところ、政党や世論ですらも「バスに乗り遅れるな」とばかりに戦時体制の片棒を担ぐ有様であった。軍部の暴走のみで、昭和初期を説明することはもはやできない。
 もちろん、当時の彼らにとっては、軍部の政治的影響が強まるなかで、それに押し流されまいとしたことが、結果として軍部への「協力」となってしまったと抗弁するかもしれない。
 一方、戦時体制の導入を急いでいた軍部も、政治や経済、国民生活全般に及ぶ改革を自らの力だけで行うことはできなかった。彼らがその政治的権能においてできることといえば、軍部大臣を引き上げて倒閣させることくらいであり、独裁とはほど遠い状況だったからである。
 それゆえに、軍部としては自らのシンパや戦時体制の導入に理解のある官僚、政治家、財界人、そして知識人を求めていた。いわゆる新体制運動は、そのような双方の意識によって生まれたものだったといえる。

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 それでは、自由主義と協調外交に基づいた1920年代までの日本社会が、どのような過程を経て統制と侵略を是認する方向へと進んでいったのか。このことについて知識人に焦点を当てて考察しているのが、マイルズ・フレッチャー『知識人とファシズム』(柏書房、2011年)である。これは、"The Search for a New Order: Intellectuals and Fascism in Prewar Japan"として1982年に出版されたものの邦訳である。翻訳に当たっては、近現代の社会史、教育史の研究を専門とする竹内洋・井上義和の両氏が手がけており、巻末に竹内氏の詳しい解説もある。


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・蝋山政道、三木清、笠信太郎
 ここでは、知識人として三人の著名な学者に着目する。蝋山政道、三木清、笠信太郎がそれである。彼らは1920年代の日本において社会問題となっていた労働運動、あるいは格差の拡大について強い関心を抱いていた。それは近代化によってもたらされた矛盾であり、行き過ぎた自由主義と資本主義の結果であるとして、社会主義、とりわけマルクス主義の立場を受け入れるかたちで、その是正に取り組もうと考えた。
 しかし、日本において社会主義は運動家と民衆との間に乖離を生み、定着には至らなかった。民衆たちは性急な改革を求めるのではなく、既存の体制のなかの生活を選んだ。社会運動に従事した人々はもちろん、知識人たちの危機感は高まっていく。

 もっとも、ここで紹介する三名の知識人は、急進的な思想の持ち主だったわけではない。蝋山は東京帝国大学・吉野作造の薫陶を受けた政治学者であった。吉野自身も社会運動に関心を抱いていたが、蝋山はそこから一歩進めた改革を目指していた。三木は京都帝国大学において哲学者・西田幾多郎の指導を受け、その秘蔵っ子として将来を嘱望されていた。彼のマルクス主義への傾倒は、師の西田を悩ませたといわれているが、いわゆる西田哲学の影響はその後の三木の思想的支柱であり続けた。笠は東京商科大学(現・一橋大学)で歴史家の三浦新七の教わったのち、大原社会問題研究所に入った。ここでは高野岩三郎、森戸辰男、櫛田民蔵らも在籍していた。
 いずれも、当時の日本の知識人として最高の環境のなかにあったといっていい。その彼らが自由主義や資本主義に疑問をもち、社会主義に傾倒していったというところに、1920年代がすでに危機の時代であり、1930年代との連続した意識をみてとることができるだろう。

 その彼らの焦燥は、やがて政治体制への不満につながっていく。当時は政党が主導的役割を果たしていたが、意思決定の遅さと党利党略に明け暮れる議会政治に対して、知識人は不信の念を募らせていった。彼らが求めたものは、強力な中央集権体制に基づき、官僚が主導する迅速かつ効果的な政策の遂行であった。そして意識的にせよ、無意識的にせよ、そのなかに自らの参画をも期していたことも注目されよう。近代国家として歩みを始めてからすでに半世紀あまりが過ぎ、政治家にあらざる学者が政策に携われる機会は限られたものになっていた。したがって、知識人はその専門性を武器に「新体制」を推進しようとしたといえる。それは、満州事変以降、時代の要請にも合致するものとみられた。


セント。

・ファシズムと昭和研究会
 では、その「新体制」の思想的受け皿として、知識人は何を選択したのだろうか。社会主義や共産主義については、その急進性から政府や資本家はもとより、民衆からも警戒されていた。そこに、ヨーロッパにおける新思潮としてのファシズム、国家社会主義を信奉するイタリア、そしてドイツの存在がクローズアップされてくる。統制と計画経済による国家の運営は、当時の知識人にとって賛成、反対の違いはあるにせよ、大きな関心事となっていた。
 このなかでも、笠は経済的な観点からナチス=ドイツの統制モデルを日本にも導入して、計画に基づいた経済運営をすべきであると主張した。蝋山は政治的観点から、やはりファシズム的な改革を行い、行政の効率化を推進すべきと考えた。三木の場合は思想的にはファシズム自体を受け入れようとはしていないが、日本社会を捉え直す試みに際して、全体主義の影響を受けている。
 社会に閉塞感が漂うなかで、自由主義に替わってファシズムが知識人を魅了していく。そうした人々が新しい日本の枠組みを考える場所としたのが、昭和研究会であった。

 昭和研究会は、学者やジャーナリスト、革新政治家らと政府高官が定期的に会合をもち、意見の交換を行う場であった。のちの近衛新体制を政策的に支えたものとして知られており、このメンバーは近衛文麿のブレーンと目されていた。蝋山・三木・笠もそこに参加して重要な役割を担っている。
 近衛が内閣を組織すると、昭和研究会の提言が政権に強い影響力をもつことになった。東亜新秩序や国内の政治・経済の総動員体制といったものは、昭和研究会における各委員会の提言を容れたものだといえよう。これは一面においては、軍部から政治の主導権を取り戻し、自らの力で政策遂行を行おうという意気込みの現われともいえる。しかし他方において、その方向性は軍部のそれと大きく変わることはなく、むしろそれを助長させるものになることもあった。


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 昭和研究会と近衛内閣の性格を眺めてみると、知識人がそれぞれの専門性を持ち寄って提言を行い、それを政府が政策に反映させるというかたちを目指したように思われる。これはある意味で、賢人会議と哲人政治を理想としたもののようにみえる。
 原理的には、このような政治のかたちこそ、合理的で効率的な社会の構築、改革の遂行を進めるものと考えることができる。「出たい人より、出したい人」という、戦中期の翼賛政治のあり方もまた、これと一致した考えであるといえよう。
 しかしながら、我々はその近衛内閣がそれぞれの場面で、結果的にその後の国家的危機を招く決定を行ったことを知っている。その責任は、近衛自身のリーダーシップの欠如に求められるところも確かにある。しかし他方で、専門家たちの提言が事態の推移に対応できず、かえって裏目に出てしまった面も否定できない。日中戦争の泥沼化や、性急な全体主義的志向が保守派や財界の反発を受けたことなども、その一例であろう。社会の矛盾や危機に対して、あるいは情勢の変化に際して、専門家による諮問機関の役割は決して万能であるわけではない。
 余談ではあるが、戦後の日本の復興が合理的に行われたとすれば、政治家が専門家(知識人)の提言をうまく取り入れ、責任の所在を明確にし、それをテクノクラートたる官僚組織が効率的に行った結果であったといえるのではないか。

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 マイルズ・フレッチャー『知識人とファシズム』(柏書房、2011年)は、昭和初期における軍部の台頭に際して、知識人たちが沈黙を強いられたとされた従来の通説に、反証した一冊である。また、その知識人がむしろ積極的に戦時体制の遂行に関与したかについて、彼ら自身、あるいは彼らのもつ専門知識を政策に反映させたいとする意識的、無意識的な動機があったと述べている。鋭い指摘であるといえよう。


 昭和初期を「暗い谷間」の時代だったと捉えるのは、現在でも有力な見方である。しかし例えば、有馬学『帝国の昭和』(講談社学術文庫、2010年)や井上寿一『戦前昭和の社会』(講談社現代新書、2011年)にみられる昭和初期の姿は、かなり異なったものである。慢性的な不況、社会不安のなかでも、鉄筋コンクリートの住宅やアパートが整備され、鉄道網は発達し、デパートが相次いでオープンする。日中戦争が長期化して、戦時体制の確立が急務とされるなかで、かえって労働需要が増して就職率が改善していく。それは、昭和初期という時代が敗戦に至る必然性を帯びていたのではなく、なお多様な可能性、将来性をもった社会だったことを、我々に改めて示したものだといえる。

 ただし、社会問題の解決のために、民衆が政治的指導者を求めたように、知識人たちも自らの提言を政治に反映してくれるような核となる人物を探し、それがともに近衛文麿という人物だったというのは、何とも複雑な心境にさせられる。近衛はその出自はもちろん、個人的には極めて優秀だったと思われるが、指導者として不可欠な政治的基盤もなく、よくも悪くも権力への執着をもたない人物だった。だからこそ、最大公約数的に彼がリーダーとして押し立てられたともいえるが、危機の時代においてこうした人々の判断が正確だったとは、結果として思えない。
 この時代のエリート志向に問題があったとすれば、まさにそうした危機意識のズレがあったからではないだろうか。

 さて、話を本の内容に戻すと、ここでは昭和戦前〜戦中の社会がファシズムであったと認識しているわけではない。知識人は確かにファシズムに魅入られ、その実現に奔走するわけだが、実際のところその努力は実らなかったといえよう。
 ただし、ファシズムが社会主義などと同様に、西洋の新しい思潮として、知識人たちの関心の対象になったことをここでは鋭く指摘している。戦後になって、ファシズムは日本の反動主義の産物と評価されてきたが、知識人の深く関与することになった背景には、それが反動的なものとは対極の、新しい思想だったからであり、その西洋を範にしてその輸入に努めたのは、近代から戦後にかけての日本の知識人と何ら変わりない行動だったことを示唆している。


 現在も、政治や経済、社会の問題について、欧米の思潮を取り入れてその解決を目指そうとする知識人は多い。もちろん、それ自体が問題というわけではないが、その思潮を現実にどう活用するかという点について、彼らの自らの役割とその限界についてどこまで意識しているのか、これは依然として注意すべきところだろう。
 また、社会的な矛盾というのは、現在においてもなお、克服されたわけではない。むしろ新たな問題が次々と現れることで、我々もまた昭和初期の人々と同じような不安を抱いている。

 そのとき、昭和初期の経験は我々に何を教えてくれるのだろうか。ひとつは危機というものの本質をより見極める眼が求められるということであろう。当時の知識人の問題意識も、ときの政府の方針も、いずれも当時の危機に対応したものであったにもかかわらず、その政策がかえってより大きな危機を招いてしまった。そして、社会問題を抜本的に解決してくれる人物や方法を、我々は依然として求めている。
 一時的な熱狂が、あるいはもはや引き返せないという意識が、多様に用意されているはずの可能性の芽を摘み取ることになるとすれば、それは不幸以外の何ものでもない。



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